丘の上の家
リネが自宅の屋上へ上がり、空を見上げると、星がいくつも光っていた。冬の星座が見える。都会は明るすぎて星は見えないが、郊外ではこれほどよく見える。
小高い丘の上に立っているリネの家から、小さな町が見える。今はどの家にももみの木のクリスマスツリーがあって、都会に働きに出ている家族達の帰りを待っているんだろう。もちろんリネの家にもクリスマスツリーが。ただ、ここに住んでいるのはリネとピートルの二人だけで、誰もやって来ることはない。
夜はだいぶ冷え込むようになった。外で洗濯物を干すのが難しい時期だ。リネは洗濯物を手にとって次々かごに投げ入れると、かごを持ってさっさと中へ入った。
今時珍しい暖炉の前で、リネは両手を温めた。真っ赤に燃え上がる炎をじっと見つめていると、その中に吸い込まれそうな、不思議な気持ちになる。
廊下の小部屋の中には、クリスマスプレゼントが閉まってある。母さんにはからくり箱。弟にはDVDデッキ。他にはアクセサリーや、食べ物なんかだ。明日には発送しなければ。リネはそれらを確認すると、そっと扉を閉めた。
あと何日かすればクリスマスだ。
一日の仕事を終えて、暖かくて柔らかいベッドの中へ潜ると、リネはホッと安心した。心地よい温かさに全身を包まれている。そうして休むのだ。なんて気持ちがいいんだろう、と、そんな微笑みを浮かべているところに、寝室の扉をノックする音が聞こえた。
「リネ?」
「ああ。」
ギッと扉が開いて、ピートルが入ってきた。
「おやすみの挨拶をしようと思って。」
そう言ってピートルはベッドへ歩み寄り、毛布にくるまっているリネの唇にキスをした。
リネは微笑んだ。
「リネ、幸せそうだな。」
ピートルは言い、ベッドの脇に座り込む。リネは黙ってピートルの顔を見つめた。
「クリスマス、仕事は?」
ピートルが尋ねる。
「休みに決まってるだろう。お前は?」
「俺は仕事するよ。みんなにプレゼント配らなきゃいけないからね。」
「そうか。」
リネは笑った。仕事と言っても、ピートルは好きで楽しんでやっているのだ。靴磨きをして、来た客にプレゼントを配ろうというのだ。
「おやすみ。」
リネは心地よすぎてだいぶ眠くなっていた。今は何も考えることはなく、やがて眠りに落ちていった。
目が覚め、リネは起きあがった。誰かに呼ばれたのだ。
「起きなさい、リシャール。ミサに遅れますよ。」
「はいママ。」
柔らかすぎるベッドの上で目を覚ましたのは、リネではなかった。
リシャールは洗面器に張ってあるミルクで顔を洗い、シルクの寝間着から、よそ行きの服に着替えた。
「今日はガロワさんご夫妻と一緒に行くのよ。さあ、もう馬車を用意させてるから、急いでね…。」
だんだん彼は、何故自分がリシャールという名で、ここにいるのかを思いだした。自分は生まれた時からリシャールで、生まれた時からこの小高い丘の上に住んでいるのだ。目覚めた瞬間リシャールは、自分が自分でないような変な感じがしたが、今それはなくなった。
リシャールはまだ眠かった。もう少しベッドにいたい。幼い頃は喜んでミサに行ったものだが、年を重ねるとそうでもなくなった。
昔はミサに行けば友達に会えた。だが、彼が遠くの町の全寮制の学校に入り、戻ってきてみると友達はいなくなっていた。一人だけ学校に行くリシャールを、皆遠い存在として見るようになったのだ。
家を出る間際、リシャールは家のすぐ側にある池を覗いた。水は凍ってはいないが、冷たく透き通って、静まりかえっている。蛙は冬眠している。小さな生き物も、寒いから大人しくしているようだ。
水面に映っている、栗色で長い髪と、緑色の瞳を持った男がリシャール・シルヴェストルだ。十七歳。母親似の鼻は高く、白い肌の上にラインがくっきり通っている。村の領主の長男で、ゆくゆくはその地位を継ぐことになる。彼は他人とは違う特別な人間だ。賢く、気高い、人の上に立つ人間だ。
リシャールは落ち着かずに神父の説教を聞いていた。横には母親や妹のマドレーヌが座っていて、彼をこづいてきたりした。実を言うと、彼の少し後方に座っている少女が気になっているのだ。
ロザリー、学校へ行く前までは遊んだこともあったのに、帰ってきてからは全く自分のことなど知らないかのように話をしなくなった。話しかけてもよそよそしい口調でしか返事をしない。やはり、リシャールの立場を知り、自分とは違う世界の人間だと知っているからだ。だが、もしリシャールが父親の地位を継ぎ、嫁を貰うことになったら喜んで来てくれるに違いない。不自由のない暮らしが手にはいるのだから。
神父の話が終わったようだ。やれやれ、と思っていると、リシャールは神父の口から興味深い言葉を聞いた。
「皆さん、近頃隣の村で、おかしな事件が起こっているようなのです。放牧していた家畜や人が、次々と殺されているのです。犯人はいつこの村にも手を伸ばしてくるか分かりませんので、皆さんどうか気をつけて下さい。」
人がわらわらと席を立っていく。ふと後ろを振り返ると、もうロザリーの姿はなかった。ロザリーと話したいが、父親は神父と話しているから帰ることができない。母親もマドレーヌも椅子に座ったまま待っている。
「おいリシャール、こっちへ来い。」
父親が手招きして呼んだ。
「お前とマドレーヌは馬車で先に帰っていなさい。」
「貴方はどうするの?」
「神父様が送って下さる。」
そう、と頷いて母親はマドレーヌを連れて立ち上がった。マドレーヌはまだここに居たそうだったが、母親に連れられ、教会を出た。
「——それでシルヴェストルさん、事が起こってしまってからでは遅い。今のうちにどうにか対策を練っておかないと。」
「分かっています。村を守るのが領主の仕事ですから。息子にも協力して貰いたいと思います。」
神父はリシャールを見た。
「それは頼もしい事です。」
「取りあえず人を雇って、村の外からやってくる人物を監視させます。そして町の人間は、できる限り外へ出さないようにします。それと、根本から改めないといけませんから、リシャールを、被害のあった村へ派遣します。」
「分かりました。早速手紙を書いておきましょう。」
帰りの馬車に揺られながら、リシャールはどういう事なのかを聞いていた。
「実はな、被害は隣の村だけじゃないんだよ。あちこちの村で同じ事が起こっている。被害は拡大しているから、この村へ到達するのも時間の問題でね。」
「犯人を捕まえればいいじゃないか。」
リシャールが言うと、父親は困ったように言った。
「犯人は人間じゃないさ。」
「そうです、悪魔の仕業です。」
神父はそう言ってため息をついた。
「分からないんだ。人間も家畜も、口から血を吐いて死んでいる。苦しむらしい。病気だろうが、もの凄い勢いで広がっている。そんな恐ろしいことを村人が知ったら、パニックになるかもしれんから、今は殺人ということにしておこう。」
「なるほど。」
リシャールは前方を見た時、心の中であっと思った。ロザリーが道を歩いている。その横には、同じ村の青年がいた。ダミアンという、農夫の息子だ。幼い頃は遊んだこともあった。リシャールは、どうしてロザリーとダミアンが二人でいるのだろうかと思った。恋人同士なのだろうか。
馬車が二人の横を通り過ぎる時、会話を聞いた。
「明日には親父と一緒にクリスマスツリーの木を切りに行くんだ。」
「素敵ね。」
「ロザリーのことを家族に紹介したいな。」
仲よさげにしている二人を見ていて少し悲しくなった。まあいい。二人の関係が何であろうと今は関係ない。
「リシャール、話は分かったかい?」
「うん。それで、俺に原因を調べて欲しいって?」
「そこまで難しいことは言わないよ。はっきりしたことじゃなくても、病気がどこから来るのかとか、分かっていれば対策ができる。お前に頼みたいんだが。」
リシャールは考えた。あまりに危険だ。一人で死力を尽くして村のために働くと、どんなメリットがあるのだろうか。
「できる限りの情報を集めて欲しい。いずれお前も領主の地位を継ぐのだから……村を守るのが領主の役目だ。」
「分かったよ。行く。」
そう言うと、父親と神父の顔が明るくなった。
「よく言った。」
「ありがとうございます。助かります。」
権力の座に座るということは、それなりの義務を背負うということだ。義務を果たさなければ、これから領主になる自分に村人はついてこないだろう。
リシャールは、英雄のように称えられる自分の姿を想像した。すると、不思議にいい気分が沸き上がって、今すぐにでも出発したくなった。
「リシャール、貴方本当に行くの? 大丈夫なの?」
「もう子供じゃないんだよ、ママ。」
「そうとも。」
母親はリシャールの出発の支度を手伝い、父親は、何処の村へ行ってどうすればいいのかを教え込んだ。
「でも貴方、こんなときでなくてもいいんじゃないの? クリスマスまで後一週間もないのよ。」
「それまでに調査が終わらなくてもいいさ。一刻を争うんだ。皆が良いクリスマスを過ごすためにも必要なことだ。」
「お兄ちゃん、帰ってくる?」
父親と母親が話している間にマドレーヌが近寄ってきた。まだ十歳。何も知らない、無防備で可愛らしい少女。そうだ、これは悪魔の手から家族を守ることにも繋がるのだ。
「帰ってくるよ。僕を信じててね。」
リシャールは馬車に乗り込んだ。召使い達も見送りに出ている。一人の御者と、二人の衛士を連れての出発だった。
クリスマスまでには帰ってこい、という父親の言葉を胸にしっかり止めておいた。いい知らせを持って帰ろう。村のどの家よりも立派なクリスマスツリーが迎えてくれるだろう。それを見れば、ロザリーだって、誰を選ぶべきか分かるに違いない。
小さな橋を渡れば、もう村の外だ。
「リネ。」
リシャールは目を開け、辺りを見回した。最初に泊まった村の、馬屋の中だった。
「誰か何か言ったか?」
リシャールは眠りかけている衛士達に尋ねた。皆、首を振った。少し甘ったるい男の声だった気がするが、誰かが寝言でも言ったのだろうか。
この馬屋では、馬が一頭例のように変死した。家の者は、一家五人が死に絶え、今は誰も住んでいない。残された家畜は近所の者が手分けして世話をしているらしかった。
被害はあまりに広範囲に及んでおり、場所も、向こうの村で起きたかと思えば次の日は別の村だったりする。
この家の家畜は皆同じ場所で過ごし、同じ物を食べていたのにどうして死んだのは一頭なのだろうか。たまたま抵抗力がなかったのか。そして、家族はどうして全員死んでしまったのか。家畜の肉を食べたわけでもないのに。
「リネ。」
リシャールは飛び起きた。さっきよりもはっきり聞こえた気がする。辺りを見回すが衛士と御者だけだ。
「どうしたのです。」
御者が目を覚ました。
「何でもない。」
声がどこからしたのかはっきりしないから、空耳だろう。リシャールは相当疲れているのだ。早く眠り、明日早く発とう。
「ただいま、ピートル。」
「おかえり。」
銀髪の青年はコートを脱いで、椅子にかけると、いい香りの漂っているキッチンへ足を運んだ。
「何作ってるんだ?」
「適当な物を混ぜてスープを作ってる。おいしかったらリネにもあげるよ。」
鍋の中のスープは異様な色をしていたがいい匂いがした。リネは腹が減っていたので、スープができるのを待たずに、冷蔵庫から適当な物を出して食べた。暖炉の前で冷たくなった手を温め、ソファに寝ころんだ。外でこんな風に寝ころんだら、きっと寒いんだろう。馬鹿なことを思いながら、リネはちょっと幸せな気分を感じていた。
ソファの上で目を閉じて、ピートルがスープを作る音を聞いている。今日、家族へのプレゼントは発送したが、そういえばまだピートルへのプレゼントを考えていない。後少しでクリスマスだというのに。
「ちょっと、庭を見てくる。」
ピートルが鍋を持ったまま玄関の方へ向かっていく。
「どうしたんだ。そのスープをどうするんだ?」
「蛙が……。」
ピートルはそう言い残して外へ出ていった。追うのも面倒だったので、リネはソファの上で止まった。あいつの考えていることは分からない。彼は蛙が好きだ。庭の池には蛙もいる。だが、この時期には冬眠してるのを知らない訳じゃないだろう。
この家の庭には大きな針葉樹がある。もう何百年と立っているのだろう。今年は雪が降っていない。だが去年と同様に、ピートルと二人でその木を飾り立てた。そのまま大きなクリスマスツリーにしたのだ。ライトアップされた庭に、豪華なツリーが浮かび上がる光景はなかなかのものだ。自分達だけのものにすりにはあまりにもったいないほどだ。
しばらくしてピートルは戻ってきた。
「おいリネ、スープおいしかったってさ。リネも食えよ。」
「誰が? 誰がおいしいって言ったんだ?」
「蛙だよ。」
ピートルはスープを一杯カップに入れるとリネの元へ持ってきた。気でも狂ったのか、と思ったが、深く考えないようにしてそれを飲んだ。少しスパイスの利いた味で、確かにおいしかった。だが蛙がこんな物飲むのだろうか。
リシャールは休むことなくあちこちの村の、被害にあった場所へ行き、情報を集めた。彼は、関連があると思われるあらゆること全てを資料に書き留め、たった数日でその枚数は親指程の厚さになっていた。
被害に遭った者と同じ店の食料を買っている者を調べたが、死んでない奴もいる。死んだ人間の共通点は、家畜の中にこの奇病で死んだ動物がいるということだ。だが、必ずというわけではない。彼等は家畜を食べていたわけでもない。
家畜に関係はあるだろう。だが、何の関係だろう。これだけ資料を集めたのに、ほとんど何も分かっていないようなものだ。
クリスマス二日前。その朝、リシャールは馬車で、この村を出て次の村へ行く途中だった。両側に牧草地が広がっている小さな道を馬車が走っていると、前方から突然もう一頭の馬車が現れた。
双方の御者は勢いよく手綱を引いた。
「やあどうも。」
「やあ。この村の方ですか?」
リシャールは尋ねた。馬車に乗っていたのは品の良い紳士だった。
「いいえ。遠くの町からやって来たんですよ。この辺りでおかしな事があるようなので調べているんです。」
「そうですか。お気を付けて。」
馬車は慎重に相手をよけてすれ違った。
この奇病を調べているのはやはり自分達だけではないらしい。
「ずいぶんいい馬車だったな。だいぶ遠くから来たんだろうよ。」
「そうでしょうね。」
と、衛士のティアリー。
リシャールは、ロザリーのことを考えた。彼女はなんと言っても、あんな農民の男よりは自分と結婚する方が得だ。彼女は自分と結婚した方が幸せになれるのは間違いない。
やがて日が暮れた。リシャールの馬車は森の中を走っていた。時々、狼らしき遠吠えが聞こえた。目的の村までの道のりは半分以上来ている。だが、馬もだいぶ疲れているだろうし、ここらで野宿するのが良いだろう。
「適当なところで馬車を止めてくれ。」
「はい坊ちゃん。」
御者は道の脇に馬車を止めた。
「この辺でいいですよね。夜ですから人なんて通りませんよ。」
「ああ。」
リシャールは馬を繋ぐと、二人の衛士、ピエールとティアリーに向かって言った。
「僕と御者と馬は眠るから、君達二人は交替で見張るんだ。馬を狼にとられないようにしっかりな。」
「はい……。」
「明日になれば旨い飯とちゃんとした寝床にありつけるさ。」
リシャールは言い、馬車の中で毛布を被って目を閉じた。御者も馬車へ入り、毛布を被った。衛士の一人が外で二頭の馬と馬車を見張った。
明日はもうイヴだ。明日行く村で情報収集をしたら、夕方には発とう。一晩中馬車を走らせれば明後日には家へ帰り着くかも知れない。クリスマスの夕食に間に合えばいいが。
「おいリネ。」
馬小屋の中や、その後いろいろな場所で何度も聞いた声だ。リシャールは、見知らぬ男が目の前にいることに気がついた。
自分はソファの上にいた。それほど驚きはしなかった。夢の中だというのが分かっていたから。
とてもぽかぽかとして暖かかった。何処からか、聞いたことのあるクリスマスソングが聞こえている。
リシャールは立ち上がって部屋の中を一回りした。見たこともないような家具が置いてある。キッチンには、食べ物がある。箱の中に一杯のジャガイモやにんじん。見たことのない果物のようなもの。いい香りまで漂っている。
とても隅々が綺麗な家だ。リシャールの家は一見豪華な装飾があって綺麗に見えるが、家具はひびが入っていたり錆びていたりする。
音楽は、一つの大きな箱の中から聞こえているようだ。聖歌隊も楽器を弾く者もいないのに、何故音楽が聞こえるのだろう。
植木鉢に入った植物の隣に等身大の鏡が置いてある。リシャールはそっと歩み寄った。そこに立っていたのはリシャールではなかった。彼の、胸まで垂らした栗色の髪は消え、代わりにもっと短い銀髪が生えていた。瞳の色は濃く、鼻は丸い。リシャールの鼻ではない。唇はふっくらとしていて小さく、肌の色は小麦色だった。リシャールとは全く別の人種に見えた。
「お前がリネか。」
ようやく正体を知ることができた喜びで、リシャールは声に出した。その声はリシャールのものとは全く違った。
「ぎゃああ!!」
突然耳元を、奇怪で悲痛な音が走った。その瞬間、暖かい部屋やリネの姿は消え、彼は真っ暗な中にいた。
リシャールは御者の方を向いた。御者は喉に手を当て、目をひんむいて唸っていた。
「おいどうした! 大丈夫か!」
リシャールは言い、御者の身体を支えた。同じく馬車の中にいたティアリーも、御者に何があったのかと尋ねた。
「ぐうう…。」
内蔵から絞り出したような気味の悪い声と、ごぼごぼという液体の音がした。
馬車に乗っていた三人は馬車から転がり出た。外にいたピエールが御者の方にランプをかざした。御者は腹をよじらせ、顔は汗で濡れていた。服はべっとりと紅く染まっており、口元も真っ赤だった。
「しっかりしろ。何があった!」
リシャールは問いかけた。
「痛い…、苦しい…!」
「誰か、何とかならないのか!」
リシャールは衛士達に言ったが、おろおろと立っているだけだった。
「坊ちゃん、助けて……死にたくない。」
そう言って御者は再び大量の血を吐いた。地面はバケツで撒いたように濡れた。ついに立っていられなくなったらしく、唸りながら地面に倒れ込んだ。
「苦しい…苦しい。」
「おい誰か! 助けてくれ! 彼を助けてくれ!」
御者は地面の上でも転がりながらもだえ続けた。
「しっかりしろ!……誰か、助けて!」
御者は痙攣しながらのたうち回った。リシャールは必死になり、彼の身体を揺さぶって励ました。
目玉は飛び出し、口はゆがみ、表情は苦痛で醜く歪んでいた。血の勢いは止まることがなかった。御者は言葉を発することもなくなり、細くなった喉から微かな空気を取り入れて呼吸しているだけになった。ヒーヒーという音がリシャールの耳にひどく障った。
「何とかしてくれ…! 死ぬんじゃない……。」
リシャールは泣きたい気分だった。この時間がとても長く感じられた。
やがて、御者は静かになった。もう死んでいた。リシャールはしばらく呆然とその場に立ちすくんでいた。人間がこれほどまでに苦しむのを見たのと、何もできなかったことが彼には大きなショックだった。
「俺達も…感染してるかも知れない。俺達も同じように死ぬんだ。」
ティアリーががたがたと震えだした。
「帰りましょうよ、坊ちゃん。クリスマスまでには帰れって、言われたじゃありませんか。」
「……あの村に引き返そう。すれ違った馬車の人…どうしてあの時気付かなかったんだ! あの人なら、僕たちにない情報を持っているかも知れない。」
「今更、無理ですよ…。もう居ませんよ。」
「分かった。帰ろう。」
あまりに突然のことだった。何の前触れもなかった。いつ自分が同じようになっても、おかしくはない。
リシャールはそれほど自分の身は重要視していなかった。だが、こんな事になった以上は帰るべきだろう。自分の村のことも心配であった。
「死体をどうしますか。」
「持って行こう。一人でこんな所に居させるのは可哀想だ。ちゃんとみんなのいる墓に埋めてやろう。」
リシャールは衛士と手伝って、御者の身体を毛布に包んで馬車に乗せた。衛生的でないのは分かっていたが、御者を思いやる気持ちの方が強かった。ふと気がつくと、リシャールの服や手には、血がべっとり付いていた。
東の空は微かに明るくなっていた。
御者がいなくなったので、三人で交代しながら馬車を操作した。今日はクリスマス・イヴ。家ではクリスマスの準備をしてリシャールの帰りを待っているのだろうか。リシャールの英雄的な知らせを待っているのだろうか。自分が出かけたことは、村の皆にも伝わっているはずだ。ロザリーはどのようにしているのだろう。
リシャールは疲れていたので、いつの間にか眠っていた。
リネがいる。暖炉の前でロッキングチェアに腰掛けて、もう一人の男と楽しそうに会話をしている。暖炉には大きな火が燃えていて、暖かそうだ。なのに、
なぜかリシャールにはその温かさが伝わってこない。会話の声も聞こえてこない。でも楽しそうに笑っている。テーブルの上にたくさんの食べ物がある。シャンパーニュもある。なんて幸せそうなんだ。彼の緑色の目には恐怖や不安など、微塵も感じられない。表情は緩んでいる。——また笑った。信じられないくらい幸せそうに。何も知らないでいるんだ。クリスマスだからだ。それがなんだって言うんだ。
「リネ!」
リシャールは叫んだ。リネが驚いた表情で振り向いた。リシャールのいる方向を見ている。だが、リシャールを見てはいなかった。リネはしばらく不思議そうにこちらを見ていたが、また男との会話に戻った。
「どうして何もしなかったんだ…リネ、お前そこにいたんだろ? ずっとそこにいたんだ。なんで助けようとしなかったんだ。」
リシャールは自分の思いを呟いた。だが聞こえていないようだった。やがて、リネは立ち上がり、もう一人の男とともにリシャールの視界から消えた。
日が暮れても、休憩を挟みながら馬車は走り続けた。御者の死体からは血の匂いと異臭がしていたが、誰も口に出さなかった。
リシャールも何度か馬車を操った。小さな村を一つ通り抜け、小さな山も越えたようだ。そうして真っ直ぐ家へと向かっている。
眠らずに進んだおかげで、二十五日の朝には、馬車は村のすぐそこまで来ていた。
「安心しろ。これで家に帰れる。」
二人の衛士にも、安堵の表情が広がった。
あと少しだ。リシャールは興奮気味に、少し馬車を速く走らせていた。川のせせらぎが、すぐ側に聞こえる。いよいよ村への入り口である橋が見えた。生きて戻ることができたのだ。リシャールはほっとした。御者もここの墓地へ、家族とともに埋葬してやれば浮かばれるだろう。
「止まって下さい。」
橋の前に、銃を持って武装した男が二人いた。そういえば父親が、人を雇って村に入ってくるものを監視させると言っていたから、その雇われた者だろう。
「この村は完全に外部の進入禁止です。すみませんがお引き取り下さい。」
「へえ。何かあったのか?」
リシャールは軽く尋ねた。
「疫病の被害が出ましたのでね。」
リシャールは驚いた。
「それは、本当なの? 誰が?」
「農夫や、羊とか…とにかくたくさん死んだんです。」
この村にも被害が及んでいるかもしれないなんてこと、考えてもいなかった。
「それならなおのこと通らなきゃならないんだ。ちょっと待って。」
リシャールは自分の調べ上げた資料を彼等に見せた。
「僕のことは知ってるだろう。その病気のことを調べてるんだ。今戻ってきた。」
二人の男はしばらく資料を眺めて確かめ、リシャールの方に向き直った。
「ええ確かに。これは領主殿に渡しておきましょう。ではお引き取り下さい。」
「ちょっと!」
いったいどういうことなのか、リシャールには訳が分からなかった。他の者ならまだしも、自分が追い出される理由が分からなかった。
「これ以上被害を増やさないためにも、外部からの侵入は絶対禁止なのです。仕方ないじゃありませんか。」
「その病気は感染するんだ。誰も入らなくたって被害は増えるさ。」
「領主の命令で、僕らはただ従うだけです。」
男は分かったか、というようにリシャールの顔を覗き込んだ。
「僕はその領主の息子だぞ。」
「息子でも通すなと、その領主からの命令です。」
リシャールの顔から更に血の気が引いた。思わず何も言えなくなった。父がそんなことを言ったのだろうか。本当に? だがそんなはずは……。
そうしているうちに、リシャール側の衛士二人が前へ出てきた。
「命がけで村のために尽くした俺達が入れないなんてことあるもんか。」
ピエールが言った。二人は剣を構えて番兵に歩み寄った。
「止めろ、撃つぞ。」
「二対二だ。俺達だってその気になればお前等の首を落とせるぞ。ここを通すんだ!」
ピエールは凄んで見せた。やはりボディガードとしてのことだけはある。番兵は引き金に指をかけ、今にも引きそうだった。
「やめろ、お前等。行こう。」
リシャールは静かに言った。そして馬車の御者台に飛び乗った。衛士の二人は渋々馬車へ乗り込んだ。リシャールは手綱を引いて馬車を出し、元来た方向へ引き返し始めた。
「どうしたんですか。まさかこのまま引き下がるんじゃ……。」
「入り口は何も道だけじゃない。無駄に傷つく必要はないんだ。」
リシャールは番兵の姿が見えなくなったところで馬車を止め、馬車を降りた。何が何でも村へ帰らなければ。
「馬車はここで乗り捨てていこう。」
番兵が見張っているのは村の中へと道の続く入り口だけだ。道のないところは見張っていない。
三人は草をかき分け、気を避けながら森の中を進んだ。すぐに、森と畑の切れ目にやって来た。
「楽勝ですね。」
「馬車を乗り捨てるとは思っていないさ。」
リシャールはそう言ったとき、初めて御者の死体を馬車の中に置き忘れたことに気がついた。だが、まあいいかという気持ちになった。自分達の誠意はあそこで壊されてしまった。墓に埋めようが放置しようが、御者自身は何も分からない。生きていないのだから。
リシャールは先に立ち、なるべく足跡を付けないように畑をそろりと抜けた。クリスマスだから、畑で仕事をする者はいない。皆家で、ガチョウの準備をしたりしているのだろう。
草の上で光る露がズボンに付いて、畑を抜けることにはだいぶ濡れていた。
しばらく行くと、段々と見慣れた場所になった。
「何人か死んだって言ってたな。誰だろう。」
「教会に行ってみますか。」
「それがいいな。」
ピエールの案で、リシャールは教会に足を向けた。このまま家に帰るのは不安だった。なぜ父親が自分を村に入れさせないようにしたのか、その真実を知ってからの方がいい。
「ピエールにティアリー、お前等はもう行っていいよ。僕の任務が終わったから、お前等も終わりだ。家族の所へ帰れよ。」
「ありがとうございます。」
二人の衛士はリシャールに頭を下げると、走ってそれぞれの家へ向かっていった。
あちこちの家の中に、クリスマスツリーが見えた。だが、自分の家のクリスマスツリー程立派な飾り付けはこの村にはないだろう。
二十分程歩くと、リシャールは村の様子が何だかいつもと違うような感じを受けた。村が静かだ。毎年この日なら、子供達がもっと外にいて遊んだりしているし、人々の楽しそうな雰囲気が伝わってくるのだ。だが、それがない。村全体が息を潜めているようだ。
そうか、まだ朝なのだ。早朝だから皆眠っている。人っ子一人いないのはそのためだ。
教会に人影は見えなくてほっとした。早朝でよかった。裏手の方から入ると、神父はミサの準備をしていた。
「神父さん。」
リシャールはそっと声をかけた。神父はリシャールの方を見ると一瞬目を開いて硬直したが、すぐに口を開いた。
「リシャール君だね。」
「どうして僕がここにいるのかって、思ったでしょう。」
リシャールは神父に歩み寄った。神父は思わず後ずさりした。
「——よく戻ってきたね。」
神父は微笑んで見せたが、その顔は少し引きつっていた。
「村への道は塞がれていたよ。」
「ああ、そのようだね。」
「パパが、僕を通さないように言ったらしい。」
「ほう、そんなことを?」
「貴方は何も知らないのか?」
リシャールが言うと、神父は目をそらした。
「知ってることを全て教えてくれ。貴方は知ってるんだ。」
「君の父上はいい方だぞ! この村に死人さえ出なければ、君を閉め出すようなことはしなかっただろう。」
「死んだのは誰だ。」
「最初は年寄りの農夫だ。それから、その家の息子…ダミアン君。そして…。」
「ダミアン?」
リシャールは尋ねた。
「ああ。君も知っている子だ。気の毒だったね。」
気の毒どころか、リシャールは喜んでいた。ロザリーと親しげに話していたあの青年だ。
「他には?」
「その後は……。」
神父の口から、数人の名前を聞いた。知っている名前はダミアン以外になく、リシャールは安心した。
家族のうちの一人がやられると他の者もやられる率が高いのは、やはり病気の特徴だ。
「人殺しだー!」
静けさの中に、叫び声が聞こえてきた。
「どうしたんだろう。」
神父が窓から外を覗いた。リシャールも気になって様子を窺った。しばらくすると、男が走ってきて、教会へ駆け込んだ。見れば、リシャールを護衛していた衛士のティアリーだった。
「お前、どうしたんだ。」
「ああ…坊ちゃん、神父さん……。」
衛士は息を切らせながら言った。
「坊ちゃんと別れた後、ピエールが突然苦しみだして、あの御者みたいに血を吐き出したんだ。あいつが、殺してくれって言うんで、…御者の姿も見てるし、ひと思いに喉を突いてやったんだ。そうしたら……。」
衛士はひざまずき、すがるように神父を見上げた。
「どんな理由があろうと、殺生は犯してはならない罪。死で償いなさい。」
神父は哀れみを込めたように、ゆっくり言った。
「神父さん、彼は悪くないよ。病気にかかった人がどれほど苦しむか知らないんだ! 苦しみから救っただけだ。」
だが、神父は首を振った。
「神父さんだったら、放っておいて、苦しんで死ぬのを待つのか?」
「とにかく、彼は罪を犯したのです。」
その時丁度、銃を持った数人の男が教会に飛び込んできた。
「神父さん!」
男達が言い、そしてすぐに、両手を地面についている元衛士とリシャールの姿を見つけた。
リシャールはとっさに、ティアリーの腕を引っ張って立ち上がらせると、そのまま走り出した。男達は、驚いたが、リシャールとティアリーが逃げようとしていることが分かるとすぐに銃を向けた。
「止まれ!」
男が何発か撃ってくる。二人は身体を低くして、扉から転がるように出た。
「ティアリー、付いてこい!」
リシャールは走った。家の方角へ向かっていた。男達の行動は、撃つか追いかけるかだ。全速力でひたすら走っている二人には追いつけず、狭い通りに入り込んだところでようやく撒くことができた。
そこはロザリーの家のすぐ側だった。クリスマスツリーの見える家が周囲にたっている。二人は頭を低くし、一件の家の裏にまわった。しばらくは隠れていられるかもしれないが、家の者に見つかったりしないように気をつけなければ。
「坊ちゃん…どうして。」
息を切らせながらティアリーが言った。
「おかしいよ。聖職者があんなこと言うなんて。…村の人だって、あんなに簡単に君を殺そうとするか?」
「いったいどういう事なんでしょう。我々は…。」
リシャールは、ティアリーの手を握った。
「僕から離れないでね…絶対。なんとかして、一緒に真相を突き止めよう。」
リシャールはすがった。一人では心細かった。ティアリーという、同じ境遇の男がいるからこそ、少しは気持ちを強く持てるのだ。
「旦那様の家に行ってみましょう。」
「そうだな。」
少し休んでから、自宅の方角へと歩き出した。ロザリーの家の前を通ると、クリスマスツリーは見えなかった。ツリーは奥にあるのかもしれないが、人気がなかった。彼女は悲しんでいるのだろう。そう思うと、さっき自分がダミアンの死を聞いて喜んでいたことが、とても恥ずかしく思えた。
ロザリーの姿を人目見たいと思ったが、彼女が自分をどう思っているかなど分からない。それに今は、村の様子もおかしい。ひょっとすると二度と会うことはないかも知れないが、仕方がない。リシャールの想いは、結局彼女に届いていないのだ。
二人は身を隠しながら建物の間などをぬって進んでいたが、日が昇るにつれて、少しずつ辺りの様子が騒がしくなっていることに気が付いた。それはクリスマスの浮かれた騒がしさとは別物だった。
「こっちの方角へ来たよな…。」
「おい、お前達は外へ出るんじゃない。」
「お前はあっちの家をまわってくれ。」
そんな言葉が聞こえてくる。茂みの中に隠れているリシャールは、自分達を捜しているのだろうと予想が付いた。家へ帰ったところでどうにかなるとは限らないが、何か分かることはあるに違いない。
あれから、リネ達の声や姿は見えなかった。リネが何者なのか分からないが、彼は何だか懐かしく、可愛らしかった。
しばらくしてようやく、誰にも見つからずに家の前へやって来たのは、太陽が真上に来た頃だった。
ほんの数日前までは、何も考えずに出入りしていたのに、今はまるで他人の家のようだ。リシャールが扉の前で躊躇っていると、ティアリーが前へ出て、ベルを鳴らした。
「時間は、ないかも知れない…。」
ティアリーが呟いた。その言葉は、二人の身体に悪魔が迫っているかも知れないということを思い知らせた。
扉が開いた。リシャールは息を呑んだ。出てきたのは、青ざめた顔をした小間使いだった。リシャールの姿を見るなり、小間使いも、神父と同じように一瞬硬直してから、やっと「坊ちゃん」、と呟いた。
「パパはいるかな。」
「大変なことに……入って。」
小間使いの声は震えていた。ひどく疲れているようにも見えた。リシャールとティアリーは、領主の寝室へ通された。
ベッドの上に、リシャールの父親が横たわっていた。リシャールはそっと歩み寄って、驚いた。
「パパ……!」
その顔は歪んでいたが、確かに父親のものだった。触れてみると、身体は硬く、冷たかった。目は閉じられていたが、その周りの筋肉が強ばっていた。
「パパ。」
リシャールは羽布団をめくった。父親は寝間着を着ていた。だが、なんだかしっくりこなかった。
「ついさっきでしたの。突然苦しみだして、血を吐かれて…お亡くなりに。」
「パパは死んだのか?」
小間使いは、こくと頷いた。
「そんな……!」
リシャールは自分の顔を両手で覆った。父親が全てだった。考えてみれば、あんなにリシャールを想っていた父親が、彼にこのような仕打ちをするはずがないのだ。こうなってしまってから、初めて思い出が沸いてくる。
それだけじゃない。自分を送り出し、このような状況にしたのも、全ての鍵を握っているのも彼だった。——どうして死んでしまったのだ。こんな時に。
「だいぶ苦しんだろ。」
「はい。……あまりのショックで奥様は倒れられて。お嬢様も奥様に付いておられます。私が旦那様の服を着替えさせて…血で汚れていたものですから…ベッドに寝かせました。」
「最後に何か言ってなかった?」
「いいえ。——でも、坊ちゃんの名前を呼んでいました。」
リシャールはもう一度、父親の姿を見た。もう動くことのない父親。もう、父親はいない。何処にもいない。リシャールは、冷たい身体にしがみついた。
「貴方は僕の全てだったんだ! 貴方がいなくなったら、僕には生きる意味がない……パパが生き返るなら何でもするよ、お願い。」
誰にともなく、リシャールは言った。
「パパを助けて…! 僕はどうすればいいの?」
「俺にどうしろって言うんだ。」
ティアリーでも、小間使いでもない声がした。
「死人がどうにかして生き返るのなら、俺の大事な人を生き返らせたさ!」
「何でもするから、助けて! お願いだから、僕を助けて。」
「俺はただの人間。ただの人間じゃない人間なんてこの世にいない。」
その声には苛立ちが募っていた。
「俺の大事な人は何人も消えた。神に祈ってもどうしようもなかった。その人を、元に戻してくれるのか? そうしてくれたら、お前のパパも戻してやるよ。」
「リネ……。」
リシャールは、リネの消えてしまった大切な人を、彼の元へ戻す方法を考えた。だが、不可能という言葉しか、浮かんでこなかった。
「坊ちゃん。」
リシャールの肩をそっと掴む者がいた。ティアリーだった。
「私がいます。二人で、これからやり直せますよ。」
リシャールはティアリーを見た。その瞳は力強く、とても頼もしく思えた。まるで父親のように。
「最初は臆病な奴と思ってた。…ティアリー、ずっと僕の側にいてくれ。」
リシャールは彼に抱きついた。その大きな胸に、リシャールは平穏を感じた。緊迫し続けていた神経が、ふっと柔らかくなった。
「——おーい!」
どこか遠くから声がした。小間使いが、窓から下を覗いた。
「村の人達だわ。どうしたのかしら。」
リシャールも窓の下を覗いた。我が家の入り口の前に、先ほど彼等を追いかけていた男と、更に何人かが加わっている。ずいぶん多い人数だ。十五人くらいはいる。それぞれの手に、銃や鉄製農具を持っていた。リシャールがやばいと思い、顔を引っ込めようとした瞬間、一人の男がリシャールの方を見上げ、あっと叫んだ。
「いたぞ! あそこに!」
「おい! 降りてこい!」
リシャールは恐縮し、思わず小間使いの方を向いた。すると彼女は、窓から大きく身を乗り出し、叫んだ。
「領主殿が亡くなったんだ! 慎め! リシャール坊やを追い回す必要なんかまいだろう?!」
「だけど、あんた。そいつは人殺しの仲間なんだぜ! もう一人そこにいないか? そいつらは悪魔の申し子なんだ!」
「なんと言おうとこの子は無実だ! どこにそんな証拠があるんだい。」
リシャールとティアリーはなるべく窓から離れた。何とか小間使いが彼等を追っ払ってくれることを望んでいた。
「二人を渡さないとあんたも同罪だぞ!」
ズドン、と音がした。小間使いは頭を抱え込み、悲鳴を上げた。
「撃ってきたわ……。」
「なんて奴らだ。」
弾は誰にも当たらなかったようだ。だが、その後も数発、銃声がした。三人は寝室のドアのすぐ側によった。
「火を付けるぞ!」
「付けちまえ!」
「おお神様…。」
小間使いは縮こまって震えた。
「どうしよう。」
リシャールは尋ねた。
「逃げよう。この家を出た方が良さそうだ。」
「坊ちゃん達は何も悪くないのにねえ…。旦那様は、騒ぎが収まれば村の封鎖を解除するつもりでしたのよ。でも、村では勝手にいろんな噂が広がって、必要以上に不安に駆られたりして。いつの間にか、坊ちゃん達も悪者になってたの。」
「そうだったのか……。」
寝室を出ると、リシャールの前に召使いの男性が現れた。
「た、大変です! 屋敷に火が付けられました。」
「何だって!」
リシャールは急いで階段を下りた。焦げ臭い匂いと、白い煙が漂っている。本当に火を付けやがったのだ。燃えているのは居間だった。まだそれほど広がっていなく、二人の使用人が火を消そうとしている。リシャール達もそれに加わった。
居間の窓が割れている。火の付いた松明か何かを投げ込んだらしい。
「裏の方からも出火してます!」
召使いが叫んだ。
「こっちもだ!」
「おおお。」
小間使いが世界の終わりだというように頭を抑えた。
「止めろ! 火を付けるのを止めないか!」
召使いは怒鳴った。するとまた銃声がした。
居間の火は何とか消したものの、他の場所からも次々に火の手が上がった。男達は一向に火を付けるのを止めようとしない。周囲は煙と嫌な匂いに包まれた。一階はもう視界が遮られるほどに煙で一杯だ。
屋敷に仕えている者達は炎をさけて、二階、三階へと上がっていった。だが、いずれそこにも火が来るのを分かっていた。
「止めさせてきます。」
ティアリーが言って、外へ飛び出そうとした。それを小間使いが止めた。
「相手は銃をたくさん持っているのに、貴方はその剣だけじゃないですか。」
その時、召使いがやってきて言った。
「東側は、まだ火が回っていません。そこから皆逃げましょう。坊ちゃん達は先に行って下さい。」
召使いがリシャールの背中を押した。
「でも、ママや、マドレーヌが…!」
「すぐに行かせます。坊ちゃんは大切な跡継ぎですから。坊ちゃんがいなければ村はまとめられないし、この家も途絶えてしまうのですよ。」
「行きましょう。」
ティアリーがリシャールの肩を掴む。
「ママ達をお願いだよ、絶対……!」
リシャールとティアリーは、東の小さな扉から外へ出た。目の前は、林が広がっていた。
「こっちにもまわるぞ!」
家の角の向こうから声がした。
「もうこっちにも来てる。」
リシャールは脅えた声で言った。
「急いで林の中へ行ってください。」
ティアリーがリシャールの背中を押す。二人は走り出した。靴が脱げそうになってもつまずいても、とにかくひたすら走った。
「追いかけてきましたよ。もっと早く走って。」
リシャールは思わず振り返った。男達が東側にも火を付けようとしているのが見えた。数人は、リシャール達を追いかけている。まだだいぶ距離があり、銃の射程内には入っていないようだ。
「まだママ達が出てきてないのに。」
「坊ちゃん、止まらないで下さい。」
「見捨てていけるもんか。」
そうしている間に、二人を追いかけていた男が彼等に向けて銃を撃ってきた。ティアリーはリシャールを抱きかかえて、体制を低くしながら奥へ進んだ。だが、やはり思うようには進まず、段々と間合いを詰められてくる。
「ママが…マドレーヌが!」
「私が何とかしてきましょう。」
ティアリーはリシャールをおろした。リシャールも付いていこうとしたが、ティアリーは言った。
「坊ちゃんがいれば村は何とかなりますよ。……坊ちゃんは、坊ちゃんが本当に愛する人と結婚して、子供をたくさん産んで下さい。このまま林の奥へ逃げて…私が奴らを止めて、奥様達も何とかしますから、お願いします。」
ティアリーは頭を下げた。そして、それでも渋るリシャールを大きくつきだして、林の奥へ追いやった。そして自分はあっという間に元来た方へ戻っていった。
リシャールは取りあえず奥の方へ走っていった。何度か銃声がした。振り返りながら走っていたが、やがて家や、ティアリーの姿も全く見えないところまでやって来た。リシャールは立ち止まった。銃声はいつしか聞こえなくなっている。ティアリーがやったのだろうか。だがいくら彼でも、一人で、銃を持った大勢を相手にすることなど無理だ。母親達は無事に逃げたのだろうか。
リシャールは無性に帰りたかったが、それではティアリーの気持ちを裏切ることになってしまう。リシャールはどうしようもなく、その場に突っ立っていた。
村を再建すると言ったって、どうすればいいんだ。あんな風になってしまった村人を、自分がどうしてまとめられるんだ。これからも村人は自分を襲ってくる。彼等は皆リシャールを恨んでいる。自分がこの村で再び平和に暮らす事なんてあり得ないのではないか。でも、どうすればいいんだ。
リシャールは長いこと考えていた。いつの間にか、日が暮れていた。林の中はだいぶ暗い。
リシャールはついに、家の方へ戻ることにした。体制を低くして、周囲の様子を窺いながら、林を戻っていった。リシャールは心の中で神の名を呼んだ。今や、頼れるのは貴方だけです。お救い下さい。導いて下さい。
やがて、自分の家が見えた。リシャールは驚愕した。家は炎に包まれ、真っ赤に燃え上がっていた。大きな炎が立ちこめ、村一番立派な屋敷は見る影もなかった。木でできていた部分はすでに崩れて落ちていた。
リシャールは駆け寄った。家の周囲には人の気配がない。男が何人か倒れている。リシャールを追っていた男達だ。喉や腹の辺りが血まみれで、動く様子がない。リシャールはほっとした。だが、次の瞬間、家の壁のすぐ側に倒れているティアリーを見つけた。彼も血にまみれていた。リシャールは駆け寄った。すぐ側の炎の熱気が伝わってきて、焼けるように熱かった。
「おいティアリー!」
リシャールが身体を揺さぶると、ティアリーは目を開けた。
「坊ちゃん…どうしてきたんです。ここは危ないから早く行って。」
弱々しく言った。リシャールは彼の身体を引きずって、燃える家から離そうとした。
「ママ達は?」
「…駄目でした。中に入ろうとしたんですが、この通りで……。」
リシャールは自分達の出てきた入り口を見た。入り口は開いていたが、完全に炎が塞いでいた。熱さと、焼け焦げる匂い。自分の母親や、自分をしたっていた妹の悲痛な叫びが聞こえてくる気がした。炎の中で逃げ場を失い、死の恐怖に苦しむ彼等の姿を想像すると、いても立ってもいられなかった。
「坊ちゃん、危ないです。……早く逃げて。」
リシャールは、燃える家を見つめていた。自分は強くなければならないのだ。火の中に飛び込んでいけるような強い身体があればいい。リシャールは、ゆっくりと扉に近づいた。大きな音を立てて炎が燃える。リシャールの身体に熱がまとわりついてくる。今までに感じたことのない熱気だ。自分の手が真っ赤になっている。再び母親やマドレーヌのことを考え、思い切って、リシャールは足を踏み入れようとした。
その時、リシャールの身体は後ろへ投げ出された。大きな手が彼の服と腕を掴んで投げ出したのだ。ティアリーだった。
その瞬間、轟音がして、黒い物が空から覆い被さってきた。まるで悪魔が羽を広げたようだった。それは一瞬のうちにティアリーの身体を食い尽くしてしまい、リシャールの目の前も、一瞬にして真っ暗になった。
リシャールの身体は痛かった。痛い、と言うと、誰かがそっとその肩を抱いた。リシャールは目を開いた。すると痛みが消えた。
「大丈夫か、リネ。」
「分からない。」
「顔が赤いし、身体が熱いよ。」
ピートルが心配そうにリネを見た。
「…暖炉の火が熱すぎるみたいだ。ちょっと外に出たい。」
リネは立ち上がって、ピートルに支えられながら外へ出た。風は吹いていない。心地よい寒さだ。池の側を通り抜け、庭の奥へ入った。
その時、何処からか小さな音がした。しわがれた音だった。リネは不思議に思い、辺りを見回した。
再び声がした。蛙の声だ。リネが驚いて草の中を覗くと、上から注ぐ電灯の光の線の中に、一匹の蛙がいた。
「どうしてこんな所に…こんな季節に。」
リネはその蛙を手に乗せ、首を傾げた。
「クリスマスだからさ。」
ピートルが言った。リネは首を傾げながら、クリスマスツリーの前へ歩み寄った。
「最近、俺おかしいんだ…変なんだ、自分が。だからこんな蛙が出てくるのかな。」
「変って、どんな風に?」
「分からない。誰かが、もう一人いるような感じかな…。」
リネが言うと、ピートルは彼の首に抱きついた。リネは、手の上の蛙が潰されないように手で守った。
「ここにはいろんな生き物がいる。鳥も木も蛙も生きてるんだ。気にすることないよ。ここに俺と君がいるんだから、それで十分じゃないか。」
「そうだな。」
蛙がげろ、と鳴いた。リネはピートルから離れ、ツリーを見上げた。ピートルと二人で、赤や黄のモールや、りんごなどで飾り立てたクリスマスツリー。今夜は何度目かのクリスマスだ。
気が付くと、紺色の空が見えた。リシャールの身体が、がれきの間から生えていた。リシャールは渾身の力で、最後のがれきを押しのけ、そこから抜け出した。
自分は助かったのだ。ティアリーがリシャールの身体を後ろに投げ飛ばしてくれなかったら、あの一瞬で死んでいたに違いない。
リシャールは地面の上を這い蹲ってそこから離れた。身体が思うように動かない。感覚がない。自分の身体じゃないようだ。
家はまだ炎を上げて燃えていた。ほとんど焼け落ちて、支柱が残るばかりだ。見ると、村人達が集まって、バケツを持って家に水をかけていた。男も女も年寄りも子供も。山火事や、他の家に燃え移っては困るから、リレーをして必死で水をかけている。もう遅いだろうに。火の勢いは、我が家が全焼するまでおさまらないだろう。せめて、いろいろな人達に一目会いたかった…リシャールの愛した人達に。
リシャールがふと、自分の手元を見ると、蛙がいた。どうしてこんな季節にいるのだろう。ひょっとすると悪魔の手下かも知れない。だが、今は何もかもどうでもよかった。どうせもう自分は助からないだろう。
リシャールは仰向けになって、身体の力を抜いた。
父が死んだ。母も、マドレーヌも死んだ。みんな殺されてしまった。ティアリーも死んだ。自分を大切に思ってくれた人が、みんな消えた。そして自分がこの世に留まっている意味なんかない。結婚して、子供をたくさん作るなんて……、そんなことになんの意味があるのだろう。何もかもなくなってしまえばいい。家族を殺した奴ら、皆死んでしまえばいい。クリスマスなんて、二度と祝わせない。
目から涙がこぼれた。何もできずに、全て奪われてしまったことが悔しかった。
リシャールはもうすぐ、大切な人の元へ行くだろう。その時には、この世にいる者はみんな呪ってやろうと思った。自分が感じたこの苦しみや悲しみを、生きながら味わうがいい。復讐してやろう。
——いや、それは違う。子供ができればまた家族ができる。リシャールさえ生きていれば、父や母の血がその子供に受け継がれる。人が死んでも、その血は途絶えることはないのだ。再び村を作り直し、ティアリーや、皆の願いが叶う日が来るかも知れない。ロザリーを妻に迎えて、子供にはパパの名前を取って……。それでこそ、リシャールを思ってくれた彼等のためになるんじゃないだろうか。
リシャールは身を起こそうと思った。だが、その時、腹の辺りにおかしな気配を感じた。腹の中の辺りがかき回されているような感じだ。次に腹痛を感じた。リシャールは、何が起こっているのかを悟った。
大量の血が、喉の奥から口の方へ沸き上がってきた。蛙は、血を避けるように飛び跳ねた。今まで感じたことのない苦しみが襲った。来るべき時が来たのだという気がした。
突然耳元で、蛙の鳴き声が聞こえた。
「いったいなんだ……。」
できることなら自分を助けて欲しい。リシャールはまだ死にたくないのだ。もっと生きたいのだ。
「神が、言っておられます。」
耳元で声がした。
「神?」
「神から、貴方にお伝えするように言われてきました。」
見ると、あの蛙がリシャールの目の前で、こちらをじっと見ている。悪魔じゃないか。悪魔め。この世には悪魔しかいないんだ。お前は悪魔の僕で、今僕にこの苦しみを与えるためにやってきたんだ。
再びリシャールは、大量の血を蛙の方に吐いた。蛙はぴょんと跳び上がって血を避けた。
「私の命も、神から授かった物です。悪魔の使いなどという、余計な偏見は止めて頂きたい。」
リシャールは血を吐いていたので、言葉を発する暇がなかった。息が詰まる。あまりに苦しくて涙が出てくる。その間も蛙は続けた。
「貴方は神のためにお仕えするのです。これから何百年も、何千年も生きて、貴方はとてつもなく強くなるでしょう。立派になるでしょう。皆に堂々とその姿を誇れるようになるでしょう。そして神の誕生を祝って下さい。」
再び恨みが沸いた。強く、立派に? なれるはずない。こんな状況にされて、どうやって立ち直るというのだ。運命は変えられないのだ。
リシャールは痛みと苦しみから逃れようと、爪で地面を引っ掻き、自分の髪を引っ張った。
「神は貴方に手を差し伸べてくれました。貴方は大きく強くなるのです。」
「殺して……。」
「貴方は生きるのです。憎むことを止めなさい。希望を持ちなさい。いいですか、憎んだり恨んだりする必要は全くないのですよ。」
もう痛みも苦しみも、限界を超えていた。内蔵がぐちゃぐちゃに引っかき回されているようだ。彼は少ない量の血を続けて吐き続けた。頭が朦朧となり、リシャールの命が尽きようとした時、彼は、身体が軽くなったような感覚がした。ふいに彼の中から、苦しみが消えた。もう痛くはなかった。
蛙の鳴く声がした。彼の中からは、憎しみも、恨みも、悲しみも全て消え去った。まぶしい光に身体が包まれ、何も見えなくなり、何も考えることが無くなった。リシャールの中にはただ、今を見る目と、今を生きようとする希望だけが残った。
彼の身体がふわりと宙に浮いた。何かに持ち上げられたようだ。しばらく上昇して、身体は止まった。
ふと下を見下ろすと、そこにリネがいた。自分を見上げて、見つめている。確かに目があった。リネの手の中には、あの蛙がいる。
「Happy Christmas.」
リシャールは祝いの言葉を言ってやった。自分に自信を持った。体中がきらきらと輝いている。自分がとてつもなく、強く、気高いものに感じられた。
「Happy Christmas.」
リネが言った。リシャールの声は彼に聞こえたのだろうか。
しばらくリネはこちらを見つめていたが、やがて思い出したように身震いし、側にいたもう一人の男と家の中へ入っていった。そこには焼けただれたがれきの家は跡形もなく、草や花に囲まれた、真新しい煉瓦の家があった。
完